ビル・ゲイツと共にマイクロソフトを創業した億万長者の成功と悲劇

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ポール・アレンに待っていた悲劇とは?


1982年、アレンが29歳の時、免疫系に影響を与える癌であるホジキンリンパ腫と診断されました。

それでも、アレンはマイクロソフトに残りました。しかし、アレンが会社に与える影響は少なくなっていきました。

ゲイツは、そんな友人をサポートするどころか、アレンがいかに非生産的になっているかを訴え始めました。

そして、ゲイツとスティーブ・バルマーが、アレンの株の持分をいかに減らすかを話し合いました。アレンは2人の会話を耳にして、1983年2月にマイクロソフトを退社すると決めました。

幸い、アレンの癌はマイクロソフト退社後にかなり良くなりました。しかし、精神状態は以前より悪くなってしまいました。

なぜなら、アレンは、マイクロソフトを辞めたいとは思っていなかったからです。彼は何か大きなものに関わりたいと思っていました。しかし彼は、その旅を続けることができなくなったのです。

なお、アレンはまだマイクロソフトの役員を務めていましたが、それ自体は彼が望んでいたことではありませんでした。

しかし、1986年にマイクロソフトが上場すると、この状況は一変します。最初の取引日の終わりには、マイクロソフトは7億8千万ドル(約1,000億円)の評価を受け、アレンの純資産は1億9千5百万ドル(約260億円)となりました。

アレンは大金と、いつ再発するかわからない病気を手に入れたのです。アレンは、生きられるうちに生きようと思いました。そして彼は前向きな仕事から始めたいと考えました。

そこで、1986年に「ポール・G・アレン・ファミリー財団」を設立しました。アレンはこの財団を通して医療と福祉に力を注ぎました。

しかし、この後、アレンは散財を始めます。豪邸、ヨット、プライベートジェット、スポーツチームなど、定番のものはすべて購入しました。

アレンは、クリエイティブな活動も行いだしました。例えば、音楽、特にロックの大ファンであったアレンは、2000年にロックヒーローであるジミ・ヘンドリックスに捧げるロックンロール博物館「エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト」をオープンしました。

また、自身のバンド「アンダーシンカーズ」を結成し、歌とギターを担当しました。2013年には、全曲の作詞・作曲を自ら手がけたフルアルバムを発表しています。

さらに、音楽だけではなく、アレンはユニークなアイテムを集め始めました。例えば、第二次世界大戦の戦闘機や美術品のコレクションなどです。コレクションの中には、1点数千万ドルもするようなものもありました。

しかし、アレンは自分のお金を全部使うのではなく、かなりの部分を投資していました。投資先は、アメリカ・オンラインやドリームワークスなどです。

またアレンは、シアトル・シーホークス、ポートランド・トレイルブレイザーズ、シアトル・サウンダーズを所有し、スポーツ投資にも成功していました。シーホークスは、スーパーボウルに3回出場し、2014年には優勝も果たしています。

ただ、彼の投資がすべて順調に進んだわけではありません。アレンは、巨額の損失も出しています。

投資先の1つであるチャーター・コミュニケーションズは倒産し、アシメトリックス、スターウェーブ、メトリックコム、インターバル・リサーチなどのプロジェクトの多くは、アレンが思い描いていたような成果を上げることは出来ませんでした。

それでも、マイクロソフトへの出資やその他の投資の成功によって、彼が200億ドル(約2兆7千万円)の純資産を持つに至ったことを考えると、これらを補うには十分すぎるほどでした。

アレンとゲイツの関係については、対立した後、最終的には和解して、話し合いの場に戻っています。

しかし、まったく同じ状態に戻ったわけではありません。アレンは2000年までマイクロソフトの役員を務め、ゲイツがCEOを退任すると同時に退社しました。

そして2009年、アレンのリンパ腫が再発し、治療を受けました。彼がこの再発でますます衰弱したのは間違いないでしょう。

人生の終わりが近づいたアレンは、自分の視点からマイクロソフトを語る「アイデアマン」という回顧録を書くことにしました。この本の中で、ゲイツが考えたとされるアイデアの数々は、実はアレンが思いついたものであると主張しています。

例えば、マイクロソフトという名前を思いついたのも、SoftCardを作ったのも、パソコン市場をターゲットにしようと考えたのもアレンだったそうです。

アレンによれば、ゲイツがビジネスそのものにほとんどの時間を費やしている間に、アレンがすべてのアイデアを出していたと述べています。多くの評論家は、この本が苦渋に満ちていて、感動的な回顧録というより、むしろ暴露に近いと指摘しています。

アレンのリンパ腫は2018年に再び再発し、2018年10月15日に65歳でその命を絶つことになります。

アレンは結婚もせず、子供もいなかったため、彼の財産を引き継ぐ相続人がいませんでした。ただアレンは死後、全財産を寄付すると遺言を残しています。あとは、妹のジョディ・アレンが、彼の最後の構想を実際に実行するだけです。

結局のところ、アレンはマイクロソフトの立役者にはなれませんでした。しかし彼の莫大な財産は今でも、多くの人の人生に影響を与えています。


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