ビル・ゲイツと共にマイクロソフトを創業した億万長者の成功と悲劇


マイクロソフトには、ビル・ゲイツの他に「もう1人」の創業者が存在します。

あまり知られていないこのマイクロソフトの創業者の生涯について、海外YouTubeチャンネル「Logically Answered」が解説しています。




*Category:テクノロジー Technology|*Source:Logically Answered,wikipedia,Bill Gates,Microsoft

マイクロソフトの創業者である「ポール・アレン」とは、どのような人物だったのか?


ビル・ゲイツは、おそらく全世界で最もよく知られた億万長者でしょう。ゲイツは、ハーバード大学を中退し、世界最大の企業の一つであるマイクロソフトを設立した天才として知られています。

それ以来、彼は億万長者リストの上位を独占し、現在の資産は1,120億ドル(約15兆円)です。そして、500億ドル(約6兆円)以上をチャリティーに寄付しています。

ゲイツにとって、マイクロソフトの創業が非常にうまくいったのは明らかです。しかし、ゲイツはマイクロソフトの唯一の創業者ではありません。実はマイクロソフト創業者には、ポール・アレンという別の天才がいます。しかし彼は、Appleの共同創業者であるロナルド・ウェインのような名誉職にはなっていません。

アレンは、10年近くMicrosoftに深く関わってきました。

アレンはマイクロソフト株の約25%を所有しており、ピーク時には6,250億ドル(約84兆円)に相当する資産を持っていました。しかし、マイクロソフトに共同創業者がいたことも、彼が数年前に亡くなったこともほとんど知られていません。

アレンは1953年1月21日にワシントン州シアトルで生まれました。両親ともに図書館に勤務していたため、格式のある家庭でした。実際、父親はワシントン大学で図書館の副館長を務めていました。一方、母親は図書館員でした。

両親はアレンをレイクサイド・スクールという私立の予備校に入れました。この学校の年間授業料は38,000ドル(約500万円)です。

また、両親はアレンを名門私立校に入学させるだけではなく、できるだけ多くのことに興味を持たせようとしました。そのため、博物館やギャラリー、コンサートなどによく連れて行きました。しかし、残念ながら、彼の最大の興味はそのどれにも当てはまりませんでした。

彼の最大の興味は、学生時代の友人と一緒にコンピュータをいじることでした。その友人というのが、ビル・ゲイツ、ケント・エバンスです。

この3人は、レイクサイドのテレタイプ端末を使って、プログラミングの腕を磨きました。そして、プログラミングクラブを立ち上げることになりました。しかし、コンピュータを持っていませんでした。

そこで、地元のコンピュータ・センターという会社と取引をしました。取引の内容は、コンピュータを使う代わりに、その会社のソフトのバグを見つけるというものでした。

それが、レイクサイド社のスケジュール管理ソフトの開発につながりました。

また、アレンは趣味に明け暮れながらも、決して学業に手を抜くことはありませんでした。なんとSAT(アメリカの統一試験)で1,600点を取って、ワシントン州立大学に入学したのです。

実は、アレンはゲイツより2歳年上で、アレンが大学に進学した時、ゲイツはまだシアトルにいました。そのため、2人は連絡を密に取り合っていました。そして、彼らは「Traf-O-Data」という最初の本格的なビジネスに取り組みました。

当時、州や自治体では、信号待ちを効率化するために交通量調査を行うことがよくありました。そのために、道路にゴムホースを敷いて、車が通るたびにゴムホース内に空気パルスを発生させ、それを機械式カウンターで記録していました。

アレンとビルのTraf-O-Dataの構想は、このプロセス全体をデジタル化することでした。しかし、またしても根本的な問題が発生しました。

そこで、ポール・ウェナーグという人物と組んで、コンピュータを作ってもらうことにしました。しかし、せっかく軌道に乗り始めた矢先、この3人の足並みは乱れます。

なんとワシントン州が独自の交通処理プログラムを開発し、自治体に無料で配布することになったのです。これで、残念ながらTraf-O-Dataの必要性は完全になくなってしまいました。

この時点で、アレンは2年間の大学生活を終えていました。そして、ボストンのハネウェル社からプログラマーの仕事の依頼があり、中退してその仕事を引き受けました。

この時、ゲイツが同じボストンにあるハーバード大学に進学することが決まっていたため、これは絶好のタイミングでした。

2人はさらにボストンで親交を深めました。その結果、次の事業を始めるのに、さほど時間はかからなかったのです。

1975年、アレンとゲイツはマイクロソフトを設立します。ただ、その会社は今私たちが知っているような会社ではありません。当時は、ニューメキシコ州でプログラミング言語のインタープリターを販売するのが中心でした。

最初の顧客は、Micro Instrumentation and Telemetry Systemsという新進気鋭の会社でした。この会社がニューメキシコ州アルバカーキにあったことから、アレンとゲイツはマイクロソフトの拠点もここに置くことにしました。

その後、本社を自分たちの住むワシントン州に移すのは、それから4年後のことです。その間に、マイクロソフトは海外にも進出することになります。

1977年8月、日本のアスキー社と契約を結び、「ASCII Microsoft」をオープンしました。このように、会社は順調に発展していきましたが、アレンとゲイツがお互いに反感を持ち始めるのに、そう時間はかかりませんでした。

きっかけは、ゲイツがアレンより多くの株を欲しがっていたことです。ゲイツの言い分は、アレンがすでに高給取りであるのに対し、自分はまだ大学生で稼ぎが少ないというものでした。

また、ゲイツはマイクロソフトでより大きなリスクを負うだけではなく、マイクロソフトにより多くの時間を割くことができると主張しました。

この主張には、アレンも納得し、60対40の割合で株式を分割することに同意しました。しかし、ゲイツはもっと多くの株式を欲しがったのです。そこでゲイツは、すぐに64対36の割合で契約書を作り直しました。

アレンは、このことで大騒ぎをしたくありませんでした。また、うまくいけば2人とも金持ちになれることも知っていました。そのため、ゲイツに反撃しませんでした。ただ、時が経つにつれ、事態はさらに悪化していきます。

マイクロソフトがマスコミの注目を集め始めると、ゲイツはマイクロソフトの顔として立ち、徐々にアレンの社内での存在感を消していきました。

しかし、アレンはプライドが邪魔をして、ゲイツと対立できませんでした。アレンによると、ゲイツは普段から非常に負けず嫌いで、自分の欠点をなかなか認めないことが多かったそうです。

しかし、それでもアレンは会社を辞めようとはしませんでした。彼は、マイクロソフトの将来について非常に楽観的でした。ただ、あることがきっかけで、状況は大きく変わってしまいます。


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